長篠の戦い①

f:id:atatuutata54:20210531174747j:plain
長篠の戦い
戦国時代の天正3年(1575年)、三河国長篠城を巡って勃発した合戦。
この合戦を語るには先ず三人の武将を知っておいてほしい。



f:id:atatuutata54:20210531180015j:plain
武田勝頼(1546~1582)
信玄の四男として生まれる。初陣は上野箕輪城攻め。長篠の戦いでは一万五千の軍勢を率いた。




f:id:atatuutata54:20210601063404j:plain
織田信長(1534~1582)
比叡山の焼き打ちと本能寺の変で有名な人。マムシと呼ばれた斎藤道三の娘と結婚。三万の兵を率いて長篠へ。






f:id:atatuutata54:20210531183417p:plain
徳川家康(1543~1616)
幼少期を織田氏、今川氏の人質として過ごす。
桶狭間の戦いでの今川義元の死をきっかけに信長と同盟を結ぶ。


この戦いは武田勝頼長篠城を襲った事から始まる。勝頼が率いた軍は一万五千。この城を守る徳川軍はなんとしても、この地を守らないといけません。長篠城三河の入り口にあり、ここを落とされたら勝頼が三河へ自由に侵入出来るようになるからです。
しかし、この時長篠城にいた兵はなんとわずか500。

f:id:atatuutata54:20210531183437p:plain
▲後に、長篠城には兵がたったの500人しか居なかった事を知らされた徳川家康

500対15000では本来は勝負になるはずがありません。が、包囲こそされたもののなかなか落とされる事はありませんでした。
200丁ほどの鉄砲を所有していた事、食料が豊富にあった事、さらに周囲の地形も味方していたからです。

f:id:atatuutata54:20210531184201p:plain
長篠城にはたくさんの食料があった。

が、浮かれてばかりも入られません。長期の籠城で援軍が来る事を待とうとしていた徳川軍だったのですが、兵糧蔵が焼失してしまうのです。
これにより、状況は一変。食料が尽きてしまえば数日以内に落とされてしまう可能性が出てきました。
この状況をみて城側は、鳥居強右衛門という人物を密史として放ちます。援軍の要請の為です。

鳥居は、武田軍の目を盗み危険をおかしながらも約65キロ離れた岡崎城へ向かい、徳川家康に無事、援軍を要請する事が出来ました。

f:id:atatuutata54:20210531190229j:plain
鳥居強右衛門

f:id:atatuutata54:20210531190329p:plain
▲長篠の状況を聞き、すぐに援軍を出す事を決める家康。

家康に援軍の要請を終えた鳥居でしたが、その帰り道、不運にも武田軍に見つかってしまいます。
これにより、武田軍は援軍がここにやってくる事を知ることになります。
それを知った勝頼は、鳥居強右衛門長篠城から良く見える場所に磔にします。そして、鳥居に「援軍は来ないと味方に向かって叫べ」と命じます。
f:id:atatuutata54:20210531190751j:plain
▲磔にされる鳥居。

鳥居は一度はそれを承諾します。が、家康のあの姿が思い浮かぶのです。

f:id:atatuutata54:20210531190918p:plain
▲援軍を出す事を決める家康。

そして鳥居は仲間に向かってこう叫びます。
「2、3日中に援軍はくる!それまでの辛抱だ!頑張れ!」と。
これに怒った勝頼は、鳥居を惨殺してしまうのです。

_______

鳥居強右衛門の死はある意味では無駄ではありませんでした。奮起した味方達は、援軍が来るまでの間、長篠城を見事守り抜きます。
そして、遂に信長軍30000、家康軍8000の援軍が到着します。



f:id:atatuutata54:20210531191618p:plain
▲8000の兵を率いてやってきた家康。「鳥居強右衛門こんな風に死んでたねーー!」と何故かご満悦の様子。


次回へ。