長篠の戦い②

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鳥居強右衛門の命懸けの要請もあり、長篠城が落城される前に信長、家康ともに援軍として無事到着する事が出来ました。
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▲遂に援軍を率いてやってきた家康。


少し話はそれますが、武田勝頼武田信玄の側室の子でしかも四男。最初は母方の『諏訪』を継いで諏訪勝頼を名乗っていました。が、兄たちの相次ぐ失脚や死などが重なり、急遽武田家の家督を継ぐことになりました。
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▲本来なら武田家の家督を継ぐ筈ではなかった勝頼。信玄と比べると見劣りするようにも感じるが劣勢な状況でも諦めない胆力はある。

カリスマ性を持っていた信玄の死などもあり、この勝頼に対する重臣達の信頼は無かったと言われています。

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▲合戦前、勝頼を舐め腐る家康。数の有利もありほぼ勝利を確信していた。

しかし、信長はそんな武田勝頼を警戒していました。明智城などの陥落などもあり、勝頼は脅威と考え策を練ります。
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▲勝ちを拾うため、冷静沈着に状況を把握し、全てを利用する信長。

当時の合戦では、日本刀、弓や槍などの至近距離での戦闘が主流でしたが信長は1000丁の鉄砲を用意して、自軍に有利な場所への野戦築城を行うのです。

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野戦築城とは平地を要塞化し、敵との戦いにおける相対優位を得るための戦術です。穴を堀ったり、木の枝を植えたり、馬防柵を建てたりなど、あらゆる要素で敵の攻撃を防ぎます。ヨーロッパではよく使用された戦術でしたが、これを平地において日本で始めたやったのが信長でした(知らんサイトから抜粋)


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▲信長の姿勢を見て気持ちを引き締める家康。最早油断は微塵もない。

自軍にとって有利な場所で即席の城を作り相手の攻撃を待つという策でした。
更に信長は勝頼が見誤るように自軍の兵が少なく見えるよう配置、これにより勝頼は『数の脅威』からの撤退の選択は取らなかったとされています。

更に信長は、家康の重鎮である酒井忠次に4000の別動隊を率いさせ長篠城へ向かわせます。実はこの時、勝頼は兵3000を長篠城に残していました。
信長は酒井に、奇襲による長篠城の救済の任務を与えたのです。
実はこの作戦は、合戦での軍の意向を決める軍義の場で酒井が提案したものでしたが、その場では信長は「そんな小細工必要ない」と酒井を叱責したと言われています。
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酒井忠次徳川四天王の一人と言われている。

しかし、軍義終了後、信長は酒井を呼び寄せ「そなたの作は理に敵っている。」と誉め、奇襲の任を与えたと言われています。軍義の場で叱責したのは作戦が外に漏れるのを防ぐためでした。

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▲そうとは知らず人前で叱責された酒井忠次を励まそうとする家康。この時既に酒井は信長から直接、奇襲の命を受けていた。


そして酒井は見事長篠城の救済に成功。当初の目的はこれで達成されました。しかし、信長は「ここで勝頼を討とう」と考えます。
①勝頼からは信長軍、家康軍は本来の数より少なく見えている。
②勝頼は脆弱そうな塀を自慢の騎馬隊で突破すれば信長を討てると考えていた。

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▲信長の鉄砲隊。勝機を作った。

信長はこの自分の作った状況を利用し、勝頼の騎馬隊を鉄砲で迎撃していきます。更に長篠城を包囲していた砦の陥落などの情報も入り、勝頼はもはや前に攻める事しか出来なくなってしまいました。


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▲勝利を確信した家康の舞い。

勝頼は左右の両翼を攻撃の主力とする陣形をとっていたのですが、中央にいた重鎮達が勝手に退却した事もあり、攻撃の的がさらにこの両翼に集中、結果、名だたる武将を失う事になってしまいました。

こうして、長篠の戦いの決着がつきました。
武田軍は織田・徳川軍に敗れたのでした。

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▲後日、酒の席で信長に感謝の意を伝える家康